「さて、今日は帰るとしようか」
廊下に出ると、コーデル先生はなにかに気づいてはっと立ち止まった。
「すまない。レッスン室に忘れ物をしたらしい」
「忘れ物?」
胸のあたりに手を当て、ため息をつく。
「胸ポケットに入れていたはずのペンが、見あたらない。練習中に使ったのは覚えてい
るから、多分そこだろう。すまないが、鍵を貸してもらえるかな」
「なんならつきあいましょうか? 落としたんなら、一人より二人のほうが探しやすい
でしょう」
「いや、時間ももう遅い。君は帰るといい」
「尊敬する先生のためなら、そのくらいなんともありませんよ」
さっきの借りを返すようにそう言うと、コーデル先生は笑いながら答えた。
「ならその言葉に甘え、存分に働いてもらおうか」
俺が手伝うまでもなく、レッスン室に戻ってすぐにペンは見つかった。譜面台の上に
置き忘れていただけらしい。そのまま部屋を出ようとすると、突然ドアが外から開かれた。
こんな時間に誰が? と思って立ち止まる。ほぼ同時に小さな人影が、開け放たれた
ドアからするりと中へ入ってきた。
「こんにちは。コーデルは、いるかしら?」
穏やかな口調でそう言うと、少女はかわいらしく首を傾げた。俺より少し年は下だろ
うか? 小柄で、あどけない笑みを浮かべて立っている姿は、まるでこの学院の生徒の
ように見えたが……しかし、コーデル?
「あ、いた。お久しぶり、コーデル」
ドアの近くにいたコーデル先生をすぐに見つけ、彼女は軽く手を振った。久しぶり、
と言うのなら知り合いに間違いはないんだろうが、コーデル先生を呼び捨てするなんて、
どんな関係なんだろうか。
すぐになんらかの返事をするものだとばかり思っていたが、コーデル先生は、じっと、
食い入るようにその少女を見つめ、押し黙っている。
「……先生?」
にこにことしている少女とは対照的に、その表情は硬い。突然の事態に二人を見比べ
ながら黙っていると、やがて、先生はぽつりと言った。
「マリア先輩……なぜ、ここに?」
「たまたま近くに立ち寄ったから、あなたの顔を見ていこうと思って。どうしたの?
そんな顔して」
先生の口調からは、警戒するような、また、驚くような響きが感じられた。だが、ま
ったく物怖じしている様子もなく、マリア先輩と呼ばれた少女は、無邪気に微笑んでい
る。いや、少女――と言うわけにはいかないのか。
コーデル先生よりも年が上なら……少なくとも三十才は越えていることになる。しか
し、まるでそうは思えないほどに、彼女は若く、そして少女のように純粋に見えた。
「たまたま、近くに立ち寄ったんですか?」
一語一語、確認するように先生は続けた。口調は、相変わらずだ。
「ええ。でも、ずいぶんあなたも変わったわね。ちょっとびっくりしちゃった」
低く、不穏ですらある先生の声とは違い、小鳥のさえずるような、高く澄んだ声で無
邪気に彼女は答える。
「……あなたは、変わっていませんね。あれから、十五年も経っているというのに」
「ふふ。よく言われるわ。それで、こちらは?」
そして、マリアと呼ばれた女性は、俺のほうを見てまた首を傾げた。あまりに自然な
動作だったから気にかからなかったが、そうした仕草のひとつをとっても、本当に、ま
だうら若い乙女のようだった。
「あ……俺は、コーデル先生の助講師で……」
「そんなことよりも、あなたは、なぜ、ここに来たんですか?」
澄んだ瞳に見つめられ、少し戸惑いながらも自己紹介をしようとしたが、それをかき
消すように先生が彼女を問いつめた。
「あら、紹介もしてくれないの? いいわよ、自分でするから」
気にした様子もなく、彼女はくるりとこちらを向くと、優雅に一礼して、俺の手を取
った。急に握られた手を思わず払いのけそうになったが、それよりも早く彼女は言った。
「私はマリア・ローレン。コーデルが学生の頃に、あなたと同じ、ここで助講師をやっ
ていたの」
「は……はあ」
「あなたは?」
「俺は……アーシノ・アルティエーレ……です」
「よろしく、アーシノ」
「よ……よろしく、お願いします。ローレンさん」
「マリアでいいわ」
「わかりました、マリアさん」
友好の証だったのか、握っていた手を上下に軽く降り、そっと手を離してそのままコ
ーデル先生に向き直った。その、柔らかな手の感触に、思わず名残惜しさを感じる。
それにしても――マリア、か。
「先輩……あなたは、いったい」
終始、彼女ペースでことが進み、全く要領がつかめない。それに、普段からマイペー
スなコーデル先生がここまで振り回されるのは、初めてのことだった。
自分よりもマイペースな人は、案外苦手なのかな? なんてことを考えていたが――。
「ところで、あの人は?」
しかし、続く彼女の言葉で、それが間違いだと気づかされた。
「今はおられません」
低く、冷たい声だった。
おそらく、初めて見る、コーデル先生の怒った顔。
やる気がない生徒を叱るときとは、全く違う。
「そう」
しかしマリアさんは、何事もなかったかのように残念そうに眉をひそめただけだった。
「いたら、どうするおつもりなんですか?」
「うそ。知ってたわ、あの人がいないこと」
茶目っ気たっぷりに舌を出し、悪びれずに彼女は笑った。
「そうですか。特に用もないようなので、それなら私は失礼します」
振り返ると、そこにはいつもと変わらない先生がいた。いや……いつもより、少し表
情が硬い。
「あら、もう帰るの?」
「どのみちそのつもりでしたから」
「ねえ、コーデル」
「……はい?」
「明日もまた、来ていいかしら」
「断る権限は、私にはないようなので、ご自由に」
「ありがとう、コーデル」
「ただし、レッスン中は生徒の邪魔にもなりますので――」
「わかってるわ。なら、またこの時間でいいかしら」
「……どうぞ」
話を早く切り上げたいからか、それだけ答え、コーデル先生はドアから外へと出てい
った。取り残された俺は、どうしたら良いか完全に迷ってしまう。
そして、こちらを興味深そうに見ていたマリアさんと視線が合った。
「あの……俺は、どうしたらいいんでしょうか? 鍵を閉めて、守衛室に持っていかな
ければならないんですが」
「もう少し、お話をしていかない? もう、時間が遅いかしら」
「まだ、大丈夫だとは思いますけど」
彼女の提案は、こちらも望むところだった。コーデル先生のさっきの態度、そして、
この目の前のマリアと名乗る女性。その両方が、驚きと戸惑いと同じくらい、今の俺の
心を占めていた。
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